会員体験談集


会員の体験談を掲載しています。

2019.10.20(日)「三重きつおん交流会」にて体験発表

 

 

「言友会体験発表」  太田 一郎

 

 

 

 私が吃音を発症したのは、自分自身では全く覚えていません。

 

ただ、父母が神経質になっていて、どもったりすると、わたしが嫌がっているのに、ほっぺたをマッサージしたり、「もっとゆっくり話せ」とか言うのですね。ほっぺたをマッサージしところで、吃音が治るわけでもないのですが、かといって、両親が「無知」だとけなすことはできないと思います。彼らにしてみれば、自分の子供の吃音を治すのに必死だったと思います。でも、やはり、今でも、両親がそんなに神経質でなくて、そのままおおらかにほっておいてくれたら…という、ちょっぴり恨みがましい気持ちは捨て去ることはできません。

 

 私の場合、みんなにからかわれたとか、まねされたとかで、吃音を意識したのではないのです。自分でも無意識のうちに、両親によって、「自分が吃音だ」ということを植え付けられてしまったようなものです。

 

 さらに悪いことに、わたしは「チック症」も併発していました。顔の一部を不自然に動かしたり、ゆがめたりするのですね。

これは、特に母がうるさかったです。これも、私には何の意識もありませんでした。母が「そんなことをしていると顔がゆがむぞ」とか「人前でするな」とか、本当にうるさかったのを今でも覚えています。こんなこと、ちょっとした癖は、ほかっておいてくれれば、自然に治っていったのではないか、と今でも思っています。

 

 こんな風にして、私の「吃音」と「チック症」は、両親によって、心の奥底に深く刻まれてしまいました。こんなことを言うと、いかにも両親を悪者扱いにしてしまうようですが、これは結果論です。両親が注意しなくても、私は「吃音」であり、「チック症」であったかもしれない。何もかも両親のせいにするつもりはありません…

 

 でも、今でも次のようなことには、父を恨みに思っています。

 

私の諸症状を心配した母が、名古屋大学大学病院の小児精神科に連れて行ってくれたのです。しばらく通っていて、私は絵をかいたりしていて、母は医者との面談をしていました。医者が、「お父さんともお話しをしたい」といった時の父の反応は、今から思えば耳を疑うものでした。「そんなものやめてしまえ」というものでした。今の時代ならともかく、私の子供時代は、「精神科」というものに強い偏見があり、父も、自分の子供が精神科に通うなどということには、おそらく耐えられなかったのでしょう。小学校時代、学校を早引きして、名古屋大学病院まで通っていたものですから、そのことは皆に知れてしまいました。

 

 私は、小学校時代は、国語の時間などに、本を読まされるということに、恐怖感は感じませんでした。だけど、つかえたりすると、「太田は、どもりで病院に通っている」と言いふらすのですね。

 

 中学時代も、本読みさせられる、ということに、多少は恐怖感はあったものの、ひどい恐怖で言葉が出ない、というほどではありませんでした。ただ、そのころはやっていた落語で、三遊亭歌奴の「山のあなあなあな…」という吃音を題材にした面白話がありましたが、若い人にはわからないと思いますが、私がどもると、周囲で「山のあなあなあな…」とからかわれたのを覚えています。

 

 吃音がとてもひどくなったのは、高校時代でした。国語とか社会とか、本読みがありましたが、当てられるともう心臓がどきどきして、まったく言葉が出ないのです。もう立ち尽くすだけです。先生によっては、出席簿の順番に本読みを当てる人もいますし、突然指名する人もいます。こんな時は、もう地獄でした。次は自分の番だとか、あるいは、いつあてられるかわからない恐怖感。もう、私の心臓は、どきどきを通り越すような状態でした。いつかは心臓の病気で倒れるんじゃないかという不安さえ生じるほどでした。

 また、出席簿の番号がありますが、その日の日にちの番号で当てる先生もいました。そんな時は、もうその日に自分が当てられることがわかっていましたから、前の日から不安と恐怖でした。たまりかねて、ずる休みをしたこともありました。仮病です。けれど、小中学時代と違って、周りでそれをバカにしたり、私が立ちすくんでいるときに笑ったりする人はいませんでした。笑うよりは、哀れみかな、なんてひがんだりもしました。友達も、仲のいい友達が二人ほどいましたが、私の吃音に関しては何も言いませんでした。

 

 そんな恐怖におびえる毎日だった高校時代も終わって、大学に入ると、なんか一気に解放されたようでした。もちろん、これまでのつらい受験勉強からも解放されたのは言うまでもありませんが、何よりも、英語やドイツ語の時間以外は、本読みで当てられることもなくなりました。だいたいは大きな教室で講義を受ける、という授業のやり方でしたから、本読みなどというものからは、まったく解放されて、本当にのびのびとした楽しい日々でした。しかし、大学にはゼミというものがあります。指導教授の下で、勉強をして、やはり順番に自分の意見などを発表していかなければいけないのです。これには、さすがに二年間は、一人で好き放題していただけに、また「みんなの前で話さなければいけない」という恐怖にさいなまれました。本当に嫌でした。その日はさぼるという、また高校時代の悪い癖が出たこともありました。

 

 思えば、高校時代から私は「吃音から逃げてばかりの生活」でした。就職の時期になっても、まともな就職活動はできず、幸か不幸か、勉強だけは好きだったので、大学院に行けば楽なのでは…などと馬鹿なことを考えてしまいました。親も、教育に関しては理解があったものですから、決して豊かではなかったのですが、許してくれました。でも、いくら勉強が好きでも、大学院などには、ましてや他の大学の大学院などには入れるはずもありません。完全に実力不足でした。もう浪人をするほどの余裕もなく、アルバイトをしながら、求職活動をしていました。そのアルバイトというのが、英語教師だったのです。吃音で、みんなの前で話すことがあれほど苦手な私がですよ。決して上手な先生ではありませんでしたが、それがしばらく続けられたことは、今思い返しても不思議です。

 

 そのうちに、新聞で自動車メーカーの中途採用の広告を見ました。大きなメーカーで、ここならば、と思い応募しました。学歴不問の製造業です。父は、「せっかく大学まで行ったのに」と怒りましたが、私にはこの選択しかないように思われました。アルバイト時代、会計事務所にも行っていましたが、電話がどうしても苦手で、どうにもなりませんでした。製造業ならば、機械相手で、セールスのように人に接することもない、事務のように電話を手にすることもない。そんな浅はかな考えからでした。

 

 今、この言友会の皆さんは、そんなことに対して逃げることもなく、真っ向から事務仕事などに対峙してこられてきた方ばかりです。そんな方々を見ると、「逃げてばかりいた」私の弱さ、愚かさをしみじみと感じます。

 

製造業といえども、QCサークルの発表とかあり、代表に選出された時は、本当に苦痛でした。上司の前で、いろいろ発表した時は、本当にあがってしまい、めちゃくちゃな発表でした。また進級試験のようなものもあり、自分の研究発表なども、上司たちを相手に、しっかりと説明しなければいけないのです。それが出世につながっていくのです。もう「逃げること」が癖になっている私は、そのようなものにも消極的で、けっきょく大きな出世には全く無縁でした。

 

 本当に何度も繰り返しますが、自分から積極的に立ち向かっていく、吃音でも怖れないというよりは、「逃げたほうが楽だ」という弱い考えにとりつかれた人生でした。それに比べたら、ここの言友会の人たちは、皆さん強い人ばかりです。自ら吃音を克服しようという強い信念に貫かれた人ばかりです。なぜ自分にそれができなかったのか、今思い返しても後悔ばかりですが、いまさら過去をやり直すことはできません。

 

 私は、ニーチェという哲学者が好きなのですが、彼は「汝の人生を愛せよ」といっております。

 

もちろんその前提になるのは、今の自分を肯定する、あるいは今はそうでなくても、これからそのようになりつつあるという予感があれば、その「肯定された自分」は、過去のいろいろな無数の要因があったからではないのか、といいます。思い返したくもない過去、いやなこと、泣いたこと…もちろんその反面うれしいこともあります。そのような無数の過去がなければ、今の自分はあり得ない。今の自分になるのには、そのような様々な過去があってこその因果の結果なのです。今の自分を「よし」と思うのならば、不幸な過去も「よし」と思わなければいけない。

私は、今の自分を肯定しています。会社はもうすでに退職をして、必ずしもいろいろ話す場面が減ったというわけではありませんが、吃音に赤面することもありますが、それでも今の自分は幸せです。

 

さらに、言友会に一年半前に入会して、いろいろ話す場面にも自信をつけつつあります。

こうして、みなさまの前に立つことができるのも、これまで言友会で培ってきた自分があるからです。言友会の仲間に励まされ、これまで続けてまいりました。

 

あらためて、言友会の仲間に感謝と、そして困難を伴う人生をしっかりと生きて来られた諸先輩に敬意を表します。

 

 


 

2019.6.1(土)「伊勢 吃音のつどい」にて体験発表

「私の学校生活」 大台中学校 村田 

 

 今日はこのような場所で話す機会をいただくことで、少しでも同じ悩みを持つ人達と思いを分かち合えるのではないか、自分自身も一歩踏み出せるのではないかと思い、自分の経験を話します。

  私は吃音症で言葉が出てこず、うまく話せません。母からきくと超未熟児で小さく生れ発育がとてもゆっくりだったため、言葉を話し始めるのもみんなより遅く、2才半ごろから言葉を覚えてしゃべり始めたらしいです。そのころからつまっていて母が心配していたらしいです。私自身は、小さいころは全く気にしていませんでしたが、小2くらいから「しゃべり方、人とちがうな」と自分でも気づき始めました。でも母からは人それぞれの個性だからね、と言われあまり気にすることなくつまりながらたくさん話していました。

 

 小5~小6から周りから「何あれ」などと話し方についての陰口を言われはじめました。周りの子達に言われることで、悲しい気持ちになる日もありました。でもあまり気にしないでおこうと自分に言いきかせて明るい気持ちで話をすることを続けました。小6になり、発表の場が増えました。もうすぐ卒業ということもあってか、担任の先生の考え方が、一人の責任はみんなの責任ということで、グループ発表、個人発表まで全体の連帯責任という雰囲気になっていました。「クラスの連帯責任だから村田さんが言えるようにみんな工夫して順番を決め応援し、見守る!」と言われた時はすごく辛かったです。私が言葉をうまく話せず、つまってしまうのは誰のせいでもないのに、みんなの責任になるなんて耐えられませんでした。チャイムが鳴って休み時間になっても話すことが出来なくて、みんなを待たせた時のことを思い出すと今でも辛くて仕方ありません。静かに待ってくれれば、待ってくれるほど言葉が出てこないのです。その時の私はそのことを伝えることもできませんでした。

 

 中学生になり、新しい環境になった時、自己紹介で、自分が言葉がつまってしまうことを自分の口から伝えようと決めました。でも、なぜか自己紹介がなく、伝える機会もみつけられないまま、1学期が始まってしまいました。その結果、私が話すと大笑いされました。あんなに目の前で思いっきり笑われたのは、その時がはじめてで、大笑いされたことにびっくりすると同時に辛く悲しい気持ちが止まらなくなりました。みんなと違ってうまく話せないことで悔しい思いをしたり、悲しくなったり、自分で乗りこえないといけないんだなって思ったのもこのころからです。母にも相談していっしょに悩みながら毎日いろんな話をしました。そればかりにとらわれず、明るくすごせるようにがんばりました。そして負けない何かを見つけられるようにがんばろうと心に決めました。

夏休みに三重言友会にも初めて参加し、同じ悩みを持つ方々にもお会いすることができました。今は、学校、先生、クラスや学校全体に吃音症を知ってもらうために、言友会の濱田さんにも相談させていただいて学校生徒全員分の吃音のパンフレットを用意してもらって、それを学校へ持って行きました。そして、そのパンフレットを配ってもらい、先生方は各クラス20分くらい吃音についての説明をしてくれました。私のクラスでは、どうしたら私が話しやすくなるかを班で話し合いました。“こわい顔やびっくりした顔をしないでおだやかな表情でゆっくり待つ。” “せかさないで気長に待つ。”などの意見が出ました。私のためにみんなで時間を使って一生懸命考えてもらうのが申しわけなく思う反面、考えてくれてありがとう、と思いました。そして、みんなに、吃音という症状を知ってもらえてよかったと思います。

以前は、まねされたり、笑われたりすることもあったけれど、それを心配して、守ろうとしてくれる友達がいます。自分のことのように一生懸命心配してくれる気持ちがとても心強くて嬉しいです。私も、困っていたり、悩んでいる人がいたら助けて守ってあげられる人になりたいです。そのために少しでも聞いてくれる人に聞きやすく話せる方法を学び吃音を克服したいです。そして、自分の思いを言葉でたくさん伝えたいです。そして、これからも、もっと多くの社会の人々に吃音を理解してもらえるといいなと思います。ありがとうございました。

 



 

2019.6.1(土)「伊勢 吃音のつどい」にて体験発表

 

 

「もの心ついた時から吃音です」  立花 靖章

 

こんにちは。三重言友会の立花と申します。現在36才です。

僕は、物心ついた時から吃音がありました。幼稚園に入って覚えているのは、皆の前で誕生日か何かで発表したんですが、その時どもって僕だけ何も言えなかった事を覚えています。僕は小学校くらいから自分の吃りにも気付いていて、なるべく発表の場から逃げるようにしていました。小学校の時言葉の教室があり、同級生何名かはそこへ通っていましたが、僕はなぜかそこには先生から呼ばれなくて、なんで自分は呼ばれないんだろうなと小さいながらも思っていました。やっぱり小学校になると周りからもからかわれたりしたので、もし言葉の教室に通っていたらどうなっていたかな、と思います。小学校の時も吃音から逃げるようにしていたし、中学校、高校の時は、友達とは喋るんですが、発表の場とか演劇会とか、委員会も委員長とかになると皆と喋るようになるのでそういう所からなるべく逃げよるように逃げるように過ごしました。

僕が中学校、高校生でいちばんきつかったのは吃るから恋愛できないなと思っていたことです。こんなに吃ったら彼女はできないんじゃないかと思い、恋愛からも逃げていましたし、中学校、高校生の時は面接の無い学校を選びました。面接のある学校は受験しませんでした。推薦とかもありましたが、全部断って一般受験だけで受験しました。小学校の時どうしても私立の学校が面接もあると言う事で行きましたが、最初の立花の「た」が出てこなくて、吃った覚えがあります。向こうの先生は只緊張しているだけだなと思っていたのか、私立には無事合格しました。

僕は、今は「立花」と言えるようになりましたが、立花と言えるようになったのは31才頃で、それまでは立花の「たち」が出てこなくて、面接試験も落ち相当苦労しました。面接試験に落ちて就職活動をしたくなくなり、お酒に逃げてしまいました。お酒を飲んで皆とワイワイしている時、みんな酔っぱらっているから僕が吃っている事に誰も気づかないんです。益々益々酒にはまっていきました。何とか一社に内定をもらい、IT系の会社に入りましたが、吃音者によくある電話対応ができなくて、電話を取ったら何も言葉が出てきませんでした。会社ではプログラムを作っていましたが、ストレスから酒にどんどんどんどんおぼれてしまい、ストレスを酒でカバーし、吃りも酒でカバーし、とやっていたらアルコール依存症になってしまいました。

28才から断酒会に入って酒を止めています。また吃音の会を探して32、3才頃から言友会に入りました。大学の頃は少しチャレンジしようと思い、ホームセンターで接客のアルバイトをしましたが、吃ってお客さんと全然話しにならず、IT系の会社はストレスが多くて、辞めた後は、あまり人と接し話す事が少ない廃棄物処理の業務をしました。最近は数年前から現場責任者になってしまい電話対応が増えたり、本所の会議に呼ばれて発表したりもしますが、僕が一番つらいのは名刺交換です。家で布団の中でイメージして練習すると上手くいくんですが、いざ名刺交換しようとすると、「たたた立花です」と吃ったり人にからかわれたりして、家に帰ったらへこんだりもしますが、何とか社会人をやっています。言友会に入って同じ悩みの人達と初めて会いました。今後も言友会を頼って社会人を続けていきたいと思います。

 



 

 

2019.6.1(土)「伊勢 吃音のつどい」にて体験発表

太江寺住職 永田 密山

 

市長さんがくるまでの時間つなぎとして発表させていただきました。

私の場合どうして改善できたかについて述べさせていただきました。

 

1、私が僧侶であったから→必ず声を出さなければならないから

2、いろんな事に気がつき→気がついた事をそこそこ正しく矯正実践できたから

3、吃音に有効と思われる矯正方法を学び→本来自分が持っている自然な声を獲得できた事

4、吃ってもいい伝えたい事をきちっと伝えようと思えるようになったから。

5、言葉にはリズムがある、一人本読みでは吃るが大勢で読むと吃らない等吃りそうになった時の技術対応が読む時のお守りのようになったから。

と改善に繋がったと思われる事を述べさせていただきました。

私の前に発表した村田さん立花さんは発表の中で大変吃音で苦労していると言われておりますが、技術的な言葉の改善また今回多くの人の前で発表した事で心の中の拘りの改善も大きく進んでいると思いました。また司会をしていただいた佐々木さんよくやっていただき感動しました。